知らなきゃ恥ずかしい!日本美術『葛飾北斎』

ビジネス書のコーナーにも美術に関する本が置かれるようになり、美術に関心を持ち始めるビジネスパーソンが増えてきています。確かに欧米のエリートとの会話では西洋美術の話題が出ることも多く、美術の知識は彼らとのコミュニケーションの手助けになります。

このような背景から西洋美術の知識がもてはやされているのですが、日本人がまず知るべき美術とは、日本美術の方ではないでしょうか。欧米のエリートたちが西洋美術をよく知っているのは自国や自国周辺の歴史だからです。日本美術を知らない日本人が、付け焼刃で西洋美術の知識だけを持っているのでは、違和感を持つ外国人も多いのではないでしょうか。

欧米のエリートたちと美術の会話になったとき、日本美術の知識をベースに議論できた方が「できる日本人」として覚えてもらえるでしょう。今回は日本美術の中でも最も有名な『葛飾北斎』に焦点を当て、紹介していきます。海外にも「Hokusai」で通用するほどの人物なので、覚えておくと欧米人との会話が弾むはずです。

葛飾北斎はどんな画家?

葛飾北斎は江戸時代に活躍した絵師。有名なのは『富嶽三十六景』という富士山を描いた浮世絵です。『富嶽三十六景』は歴史の教科書にも載っているので、その中の通称「大波」と呼ばれる『神奈川沖浪裏(かながわおきなみうら)』は見れば思い出す、という方がほとんどでしょう。

美術を見るときは、作品を眺めるだけでなく最低限の知識も大切です。北斎を知るキーワードとして、次の3つのエピソードを紹介していきましょう。

1. 生涯に3万点を超える作品を制作
2. 尋常でない観察力
3. 引っ越しの回数も尋常でない

生涯に3万点を超える作品を制作

葛飾北斎は90歳まで生き、生涯で3万点にも上る作品を制作しました。江戸時代で90歳まで生きるとは、かなりの長命です。下積み時代もありましたが、若い頃からメキメキと頭角を現し、あっという間に人気絵師に上り詰めました。『富嶽三十六景』のような風景画以外にも、美しい女性を描いた美人画なども描いています。

実は「葛飾北斎」はペンネームのような形で、絵師としての名前です。北斎はペンネームを30回ほども変えており、どんどん弟子に自分の名前を譲って弟子の名声を高める努力もしていました。特に75歳のときに使った「画狂老人卍(がきょうろうじんまんじ)」というペンネームは衝撃的で、「自分には絵しかない」という覚悟を感じられます。

尋常でない観察力

北斎の凄さは、写真の無い江戸時代にも関わらず、物の動きの一瞬を捉える観察眼にもあります。『神奈川沖浪裏』では砕ける波や水しぶきが描かれていますが、これは現代のハイスピードカメラで撮影した波の写真と酷似しているのです。

私たちはシャッターを切った一瞬を撮影できるカメラが当たり前にある現代だから、波の砕け方や水しぶきの上がり方をイメージすることができます。しかし、カメラが無い時代に肉眼だけで水の動きを観察するなんて、普通の人には不可能です。北斎の人気は、その観察力で当時の人々には見えないものを描き出せたことも一因ではないでしょうか。

引っ越しの回数も尋常でない

90歳で亡くなるまで絵を描き続けたり、ハイスピードカメラ並みの観察眼を持っていたりと、天才絵師と呼べる葛飾北斎ですが、性格にも変わったところがあったようです。なんと、生涯で93回も引っ越しをしているのです。最も頻繁なときでは、1日に3回も引っ越しをしました。

なぜこんなにも引っ越しを繰り返したのかと言うと、北斎は掃除が嫌いだったから。絵を描くこと以外に時間を使いたくなかったのか、散らかしたまま引っ越しを繰り返しました。

ところが、彼が最後に引っ越したのは自分が昔住んでいた家。そこは北斎が出ていった後に誰も住まなかったようで、北斎が散らかしたままの状態でした。それを見て何か思うところがあったのか無かったのかは分かりませんが、その後引っ越すことはありませんでした。

北斎が海外でも愛されている理由

葛飾北斎が有名なのは日本だけでなく、彼は「Hokusai」として世界に通じる画家です。1999年にはアメリカの雑誌「ライフ」の企画「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」で86位にランクインしたほど。このランキングでは唯一の日本人となりました。2017年には葛飾北斎の大規模な展覧会が開催され、連日大盛況。北斎に関しては日本より欧米での方が人気が高いのでは、と美術関係者も感じています。

富士山を描いた分かりやすい日本の絵だから人気なのでは、と思われるかもしれませんが、実は北斎はヨーロッパの美術に大きな影響を与えていたのです。

ヨーロッパの絵画はレオナルド・ダ・ヴィンチなどが活躍したルネサンスの時代から脈々と受け継がれて醸成していったのですが、悪い意味で「閉鎖的」な美術品が増えていきました。しかも、「絵画はこうでなければならない」という堅苦しいルールがあったので、新しい発想が無く似たような作品ばかりが生まれ、行き詰った状態です。

閉塞的なヨーロッパ美術が北斎と出会ったのは、1867年のパリ万博でのこと。北斎の作品には、ヨーロッパでは規範とされていた遠近法を無視した大胆な構図を取っている特徴などがあり、堅苦しい絵画のルールを破ることをヨーロッパに教えたのです。北斎の自由な絵に衝撃を受け、モネやゴッホなどの有名な画家たちも日本の浮世絵からインスピレーションを得た作品を多く制作しています。

このような背景があり、北斎のおかげで西洋美術は新たな表現方法を獲得できた、とも言えるのです。その影響は日本美術の範疇に収まらず、世界に羽ばたいて貢献した日本人ということ。北斎の評価が海外でも高いのは、ヨーロッパに大きな影響を与えたから、と覚えておきましょう。

葛飾北斎についてまとめ

日本人として知らなければ恥ずかしい絵師、葛飾北斎について紹介してきました。90歳で亡くなるまで絵を描き続け、作品数は3万を超えるほど。水しぶきの観察力のように絵師としての能力もずば抜けていた半面、引っ越しの回数が非常に多いなど変わり者としての側面もありました。

海外でも「Hokusai」で十分通用するので、葛飾北斎について理解しておくと欧米人との会話が弾むようになります。作品は東京国立博物館やすみだ北斎秘術館で見ることができるので、一度出向いてみてはいかがでしょうか。

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